湯谷について

NHK放送時のTwitterをまとめたものです。

まずは「湯谷」のあらすじを 遠江国、池田の宿の長の湯谷は、都で平宗盛の寵愛を受けていた。故郷の母の病状が思わしくなく、暇を願い出てはいるが、宗盛は今年の花見までは一緒に過ごそうと言って聞き入れない。ある日、故郷より侍女の朝顔が母の手紙を持って訪れる。手紙には今生の別れの前にひと目でも会いたいと書いてある。湯谷はその手紙を宗盛に見せて暇を願う。しかし宗盛は許さず、即刻花見のお供をさせる。一行は牛車に乗り清水寺に花見に向かう。湯谷は満開の花の下、宗盛の所望で舞を舞う。心ここに在らずも舞を舞っていると、春のにわか雨が降り、花を散らす様子を見て母への思いが募る。そしてその思いの歌を短冊にしたため宗盛に差し出す。さすがの宗盛も哀れと思い、暇を与える。湯谷は喜び宗盛が心変わりしないうちにとその場より故郷に帰っていくのであった。

さて喜多流は「湯谷」と書きますが、他流さんでは「熊野」と書きます。 熊野とは熊野権現の名を借りた命名です。遊女が神名・仏名を名乗る風俗はごく一般的でした また光悦本・車屋本などは「湯谷」とあり、又「湯屋」「熊谷」「遊屋」などと書いた古記録もあります

出典は平家物語の「海道下り」から。南都焼討で有名な平重衡が一ノ谷で捕らえられ鎌倉へ護送される場面です そこで池田の宿に立ち寄った際、宿の長者である熊野の娘が重衡に歌を送ります。
「旅の空 はにふの小屋の いぶせさに ふる里いかに 恋ひしかるらむ」 (旅先のみすぼらしい家のむさ苦しさに、故郷がどれほど恋しいでしょう) 重衡は「故郷も 恋ひしくもなし 旅の空 都もつひの すみかならねば」 (故郷も恋しくない旅先、都も死ぬまで住む場所ではないから)と返します。

あまりに風流なので護送役の梶原景時に歌の主を問うと「あれこそ八島の大臣殿(平宗盛)が三河国の国司の時に召し参らせて御寵愛だった方です。老母を残し置いたために頻りにお暇を申したがなかなか許していただけませんでしたが、ある3月初めに「いかにせん都の春もをしけれどなれしあづまの花や散るらん」(どうしましょう。京都の春も名残惜しいですが、慣れ親しんだ東国の花が散るように、母も亡くなってしまうかもしれません)と詠んだところ、お暇を頂戴して下向した、東海道一の歌の名人です。」と答えた。という話です

出典では池田の宿の長者自身が「熊野」ですが、これを歌を詠んだ娘の名とし、時期も平家都落ちの直前とほのめかし、熊野の帰国を許さなかった理由を宗盛の最後の花見に絡ませています 現在物一段能でありながら宗盛の館と清水寺の二場面の間を美文の道行・ロンギで繋いだ大作にして傑作です

さてこの曲のロンギは予習しておいた方が集中してご覧になれるかと ここは宗盛邸から清水寺へ牛車で向かう場面です 能では背景が変わったり回り舞台はないので移り変わる車窓の風景を想像してみなければなりません 事前に地理的な移動や謡いこまれる名所旧跡を知っておくと良いかと思います

ここからしばらく京都の人には釈迦に説法になりますが… 平宗盛の邸は、現在の八条高倉、京都駅新幹線ホーム東寄りの外れ辺りといわれています。そこから河原町通を上って五条大橋(現在の松原橋)を渡ると清水寺には一直線です

ちなみにGoogleマップで湯谷達の経路を検索してみました。八条高倉〜馬留めまで徒歩45分。牛車も同じくらい?と思ったら割とスピード出るんですよ。その気になれば30km/h出たといわれています。

河原町八条 to 〒605-0862 京都府京都市東山区清水1丁目

完全に余談ですが… 枕草子三十二段に「網代ははしらせたる。人の門の前などよりわたるを、ふと見やるほどもなく過ぎて、供の人ばかりはしるを、誰ならんと思ふこそをかしけれ。ゆるゆると久しく行くは、いとわろし」とあります

意訳: 網代の車は、スピードを出してるのがイイ!門前を通りかかってるのを、確認するヒマもなく過ぎ去って、お供の従者が走ってる姿だけが見えるのを、いったい誰の車なのかしらと思うのが素敵…のろのろ時間をかけて進むなんて、イケてない
清少納言談

あの頃から「俺の車の方が速いぜ!」はあったようです。宗盛も人の馬に焼印押して強奪するイケイケですからどうだったでしょう? さて「四条五条の橋の上」と謡があった後、ロンギは五条大橋を渡った所から始まります。河原おもては鴨川東岸の河原。車大路は現在の大和大路通といわれています

六波羅は六波羅蜜寺。しかし地蔵堂は今はありません。安置されていたとされる立像の地蔵尊は左手に毛髪を持っていて鬘掛地蔵と呼ばれています。今昔物語にもこの像に関する説話が残っているそうなので、地蔵堂が有名だったのかもしれません

続いて愛宕(おたぎ)の寺。愛宕念仏寺のことで昔は松原警察署辺りにありましたが嵯峨野に移転しています 六道の辻は六道珍皇寺の門前。寺内には小野篁が冥土通いしたという井戸があります

名所を次々と謡ってゆくところですが、1箇所だけ気色の違うのが鳥辺山。続く言葉が「煙りの末…」となりますが、ここは風葬や火葬の地として知られ、現在も鳥辺野墓地となっています。ここでのシテの型で目を背ける人とじっと見る人両方いらっしゃいますが、さて今日はいかがでしょうか

北斗の星…」は劉元叔の漢詩「北斗星前横旅雁、南楼月下擣寒衣」からひいていますが、昔は北斗堂という妙見菩薩を祀ったお堂が六道の東にあったといわれています 聖徳太子の草創といわれている経書堂は三年坂にあり、一字一石経(石に経を一字ずつ書く)をおさめたところから、経書堂と呼ばれました

子安の塔は現在、清水寺の舞台の正面に建っていますが元は楼門の前にあったそうです 馬留めは楼門の北に現在でも馬駐として残っていますが今の馬駐は応仁の乱の後の再建です ちなみに清水寺の七不思議「馬駐の逆環」として、手綱を繋ぐ鉄環がひとつ逆さに取り付けられています

車を降りたのでここから境内です。車を降り→織り→衣→張る→播磨→播磨国飾磨郡→飾磨のかち染(播磨の染め物)→鹿間塚と徒歩(かち)に繋がり、鐘楼の北の茂みにあたります。 こうして清水寺に到着して湯谷は本尊に祈念します。 ロンギはここまでです

春たけなわの風情。満開の桜と思いに沈む美女。朽木の桜に身をなぞらえて娘の帰郷を促す母と、散る桜に凋落する平家一門を見るかのように「この春ばかりの花」と湯谷を花見に連れ出す宗盛 湯谷は最後は故郷へ帰りますが、それを見送る宗盛の胸中を思うと華やかにして狂おしい曲でもあります

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