令和6年演能情報



4月6日(土)喜多流自主公演「巴」観世能楽堂(東京都中央区銀座6-10-1 GINZA SIX 地下3階)正午開演(開場11時)

「巴」金子敬一郎
「小塩」友枝真也


6月16日(日)大島能楽堂定期公演「自然居士」大島能楽堂(広島県福山市)12:30開演

「自然居士」 金子敬一郎
「水掛聟」 茂山宗彦
「杜若」 大島輝久


7月14日(日)松山喜多流能「砧」松山市市民会館午後1時開演(12時開場)

「東岸居士」金子龍晟

「砧」金子敬一郎

解説

東岸居士(とうがんこじ
東国から旅人が清水寺に参る途中、白河の橋の畔で東岸居士に出会う。今日の説法を尋ねると、居士は特に変わったところもなく、物事は目の前に見える有様なのだから「柳は緑、花は紅」と仏の教えにある通りであると答える。更に旅人が白川の橋を誰が架けたのかを問えば、先師の自然居士が仏縁の無い衆生のために寄進させて架けた橋であることを教え、今もこうして勧進しているのだと言う。また居士は、住む所が無く出家ということもないので髪も剃らず、墨染の衣も着けずにいる。そしてどうぞあなたも悟りの境地に至りなさいと勧める。居士は、旅人に面白く歌って聞かせてほしいと請われるままに、快く舞い、また羯鼓も打って見せ、悟りの道に入ろうと説いて聞かせる。

仏師(ぶっし)
自宅に持仏堂を建てた田舎者が、お堂に収める仏像を買い求めに都へ行くが、なかなか仏師をみつけることが出来ない。そこに現れた自分が仏師だと嘘を付いた都のすっぱ(詐欺師)は、仏像は翌日出来上がるから取りに来るよういう。翌日、田舎者が出来上がった仏像を拝みに行くと、なにやら印相がおかしい。手直ししてもらおうと仏師を呼ぶと、あわてて現れた仏師がすぐに「直った」と答える。田舎者が再び見に行くと、やはり気に入らない。また仏師を呼ぶと、大変あわててあらわれる仏師。田舎者の「印相が気に入らない」と、仏師の「直った」が繰り返されていくうちに…。

砧(きぬた)
九州の芦屋某が訴訟のために上京して三年目の秋、夫の帰国を待ちわびている妻の元へ侍女の夕霧が一人だけ帰郷する。妻は夕霧の都住まいをうらやみ、夫の心を信じた自らの愚かさを嘆く。折しも里人の打つ砧の音が聞こえてくる。妻は中国の蘇武の故事を思い出す。北国の胡国に捕らわれた蘇武を思いやり、故郷の妻が高楼に上って砧を打ったところ、その音が蘇武に届いた謂れに沿って妻は自分も砧を打って心を慰めようとします。しみじみとした秋の夜、妻は砧の音を風に乗せるように、夫への思慕を込めて砧を打つ。しかし、妻のもとに今年の暮れも帰国できないという夫の知らせが届き、絶望のあまりに妻は命を落としてしまう。
帰国した夫がそれを知って弔うと、妻の亡霊がやつれ果てた姿で現われます。妻は、恋慕の執心にかられたまま死んだために、地獄に落ちていたのですが、いまだに夫が忘れられず、恋と怨みの同居するやるせなさを夫に訴え、そのつれなさを責めますが、夫の読経の功徳で成仏します。
本作は、作者の世阿弥自身が「後世の人はこの能の味わいがわからないだろう」と述べたほどの自信作。
前場では、待つ女の恋慕の悲しみ・焦燥・忘却への怨み、そうした生々しい人間的な苦悩を詩情豊かに描いている。打つ砧に怨みを託しながらも、夫の帰郷に望みを抱いていることもあり、月に興じたり、夫への愛着をも感じさせる。しかし後場では、絶望しきった妻の亡霊が現われて夫の不実を責め立て、観る者に妻の執心が押し迫る。


終了公演

2月25日(日)喜多流自主公演「羽衣 舞込」観世能楽堂(東京都中央区銀座6-10-1 GINZA SIX 地下3階)正午開演(開場11時)

「芦刈」粟谷浩之
「羽衣 舞込」金子敬一郎
「春日龍神」大島輝久

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