第三十五回松山喜多流能

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前年は中止いたしました松山喜多流能を、感染対策を施して今年は開催する予定です。

金子五郎五十回忌記念能

解説 大島輝久

能「江口」金子敬一郎

狂言「悪坊」古川道郎

能「鵜飼」金子龍晟

俺の家の話 能楽師から見た2話の解説・感想 その1

「家元制度・能楽のビジネスモデル」

家元制度について詳しくは流儀によって違いが多く誤解を招くといけないので遠慮します。
ただあのような「芸力試験」をやる事はないと思います。

例え芸がつたなくとも、本人が人品骨柄卑しからず気骨あり、流儀は一丸となって支えると皆が腹を据えればなんとかなるもの。
当流の故十四世喜多六平太宗家も継承したのは十歳の時でしたし、古今東西わかくして宗家を継ぐ方はたくさんいらっしゃいます。

さて能楽の経済事情ですが、まず基本的にみんな個人事業主です。つまり「劇団○○」のような形で「〇〇流」があるわけではありません。例えば「○○鑑賞会」という催しをAさんという能楽師が企画すると、出演者に一人づつ連絡してお願いします。能1曲に約20人です。

つまり雇用形式は「日雇い職人」です。そしてAさんは企画・広報・会計全てこなした上で役も勤めます。ちなみにドラマでは企画(出演料支払い)はシテがする、と言い切っていましたがそんな事はなくワキ方・囃子方・狂言方の企画する会はたくさんあります。

本当は事務処理に人を雇えるといいのですが、ただでさえ人件費がかかり、しかも基本1回公演なのでコストダウンは至上命題。自分か家族がやることになります。
なので近頃はチラシ制作と会計にAdobe系ソフトとExcelが必須技術になりつつあります。(なんだかなあ…ですけど

特に遠方の地方公演となりますと交通宿泊費込みで一人15万円以上かかってきます。単純計算でも20人分で300万。これに会場費・チラシ代etc.。1万円のチケットが300枚でも完璧な赤字です。そうすると赤字補填はAさんがすることになります。

もちろん企業や自治体から企画・予算が出てチケット販売などは考えなくても良い催しもありますが、ほとんどの演能会は赤字、よくて差し引き0に近いものが多くなります。ではなぜ会を催すのかといえば、ほぼ使命感のようなものです。

能には現行200番近い曲目があります。人気曲だけやっていればチケット売りも楽ですが、いわゆる地味な曲目に能の真髄が宿るものです。そういう曲は企業等からの依頼の時には集客能力など考えると出せない。でもやらなければならない、やってみたいとなると自分で企画するしかありません

また裾野を広げるためには地方中核都市での催しも必要です。ただコストの兼ね合いもあって十分な事ができない時もありかなり心苦しい時もあります。
なのでドラマで言っていた、会をやればやる程赤字はなきにしもあらず。でもさすがにあの通帳見ると生活保護を受けられそうですがw

ただAさんが催す会のおかげで20数名の出演者は出演料をもらえます。次にBさんの企画でAさんが雇ってもらえれば出演料をもらえる。そこにいわゆる趣味で能を習ってらっしゃる方の月謝などの資金で赤字を補填しつつ経済循環しています。(経済用語的にはちと違いますが…)

この能を趣味で習っていらっしゃる方の存在は非常に大切で、習っている方は高確率で観客にもなってくれます。この「習う事ができる伝統芸能」というシステムは能が明治維新を乗り越えて存続している理由の一つです。

能を習うということについてはドグラマグラで有名な夢野久作氏が「能とは何か」で「能好き」という段で著しているので、ぜひお読みください。その他の段もおすすめです。

青空文庫リンク

ドラマ「俺の家の話」の解説感想

俺の家の話 のおかげでTwitterのフォロワーが増えました。せっかくだから能楽師から見た1話の解説・感想でも書きましょう。


よく聞かれる事は能のシーンで演者が倒れるシーンについて。
実際にああいう事が起こったら舞台上で何が行われるか。
これはロケハンの時にも監督さんに聞かれました。
舞台の後方には「後見(こうけん)」という役の人が通常2人座っています。
後見は舞台上での物の受け渡し・装束替えなどを行ういわゆる黒子(くろこ)のような役ですが、演者に支障が出た場合代わって舞台を勤めるとても重要な役です。

さて、シテが倒れた!
まず地謡・囃子はそのまま進行します。そして後見の一人がシテを引きずって舞台奥右手の切戸口という小さな引き戸から楽屋へ入れます。同時にもう一人の後見が紋付袴姿そのままで舞い始めます。以上
多分30秒かからないかな
ただ、面が落下するシーンがありました
実際はああして落ちることなんて無いので、人が倒れたイメージ映像って事だと思います


でももし落ちたら?
これは能楽師は反射的に人よりも面を先に保護するような気がします。冷静に考えればまず人命ですが咄嗟の時には能面優先になるような気がします


こんな事がありました。曲の途中で明らかにシテが不調となり面の横から見える顔色も真っ青になって、汚い話ですがよだれもダラダラ垂れてきて面の顎から滴るほど。
それを楽屋で見ていたシテの父親「大丈夫か?大丈夫か?面は大丈夫か!?」
かように能楽師は面を神聖化しています。


という事はドラマの冒頭で出た面を飛び越えるシーン。
あれは能楽師にとっては最大の禁忌行為です。


あのシーンに眉を潜める能楽師は多かったようですが、ドラマの流れから見ると、最大級の親への反抗と能楽と決別する決心をするための禁忌を犯した、とても重いシーンに私には思えてしまうのです。

能とプロレス

Twitterに書いた文章をまとめてるものです。

能とプロレス。ずいぶん畑違いに見えるかもしれませんが、舞台上・リング上での演者同士・選手同士の駆け引きは似ているものがあると思っています。

能楽は演劇ですからもちろんシナリオ(セリフ)があります。
しかしシテ(主役)ワキ(脇役)は違う流儀なのです。つまり全く同じテキストではありません。


そして囃子方。例えば笛・小鼓・大鼓・太鼓も皆違う流儀です。
ではどうやって擦り合わせるのかと言いますと、擦り合わせません!どうしても話が噛み合わない時だけ融通します。


しかも、稽古(練習)はそれぞれが自分だけで稽古をします。
全員で合わせるのは基本的に前日か前々日に「申合(もうしあわせ)」を1回だけやります。時にはそれも行いません。
ではなぜ合うのか?
今回のドラマで「羽衣」という曲がありましたが、それぞれが自分の信じる「羽衣」という曲を表現します。いわばプロレスで言えば技を繰り出すわけです。


そしてそれは、よけてはいけません。正面から受けるのです。そしてこちらも自分の主張を繰り出し相手もそれを受け止め…というふうにして、時には協調し時には押し合いとなって自然「羽衣」という曲の最大公約数が舞台上に現れる、というのが能の表現となります。
ですからこの緊張感を作るために、みんなで集まって稽古したりせず、公演も1日限りになっているところが特徴的です。
舞台はその場一度限りです。

てなことで、能=プロレス論でした。

湯谷について

NHK放送時のTwitterをまとめたものです。

まずは「湯谷」のあらすじを 遠江国、池田の宿の長の湯谷は、都で平宗盛の寵愛を受けていた。故郷の母の病状が思わしくなく、暇を願い出てはいるが、宗盛は今年の花見までは一緒に過ごそうと言って聞き入れない。ある日、故郷より侍女の朝顔が母の手紙を持って訪れる。手紙には今生の別れの前にひと目でも会いたいと書いてある。湯谷はその手紙を宗盛に見せて暇を願う。しかし宗盛は許さず、即刻花見のお供をさせる。一行は牛車に乗り清水寺に花見に向かう。湯谷は満開の花の下、宗盛の所望で舞を舞う。心ここに在らずも舞を舞っていると、春のにわか雨が降り、花を散らす様子を見て母への思いが募る。そしてその思いの歌を短冊にしたため宗盛に差し出す。さすがの宗盛も哀れと思い、暇を与える。湯谷は喜び宗盛が心変わりしないうちにとその場より故郷に帰っていくのであった。

さて喜多流は「湯谷」と書きますが、他流さんでは「熊野」と書きます。 熊野とは熊野権現の名を借りた命名です。遊女が神名・仏名を名乗る風俗はごく一般的でした また光悦本・車屋本などは「湯谷」とあり、又「湯屋」「熊谷」「遊屋」などと書いた古記録もあります

出典は平家物語の「海道下り」から。南都焼討で有名な平重衡が一ノ谷で捕らえられ鎌倉へ護送される場面です そこで池田の宿に立ち寄った際、宿の長者である熊野の娘が重衡に歌を送ります。
「旅の空 はにふの小屋の いぶせさに ふる里いかに 恋ひしかるらむ」 (旅先のみすぼらしい家のむさ苦しさに、故郷がどれほど恋しいでしょう) 重衡は「故郷も 恋ひしくもなし 旅の空 都もつひの すみかならねば」 (故郷も恋しくない旅先、都も死ぬまで住む場所ではないから)と返します。

あまりに風流なので護送役の梶原景時に歌の主を問うと「あれこそ八島の大臣殿(平宗盛)が三河国の国司の時に召し参らせて御寵愛だった方です。老母を残し置いたために頻りにお暇を申したがなかなか許していただけませんでしたが、ある3月初めに「いかにせん都の春もをしけれどなれしあづまの花や散るらん」(どうしましょう。京都の春も名残惜しいですが、慣れ親しんだ東国の花が散るように、母も亡くなってしまうかもしれません)と詠んだところ、お暇を頂戴して下向した、東海道一の歌の名人です。」と答えた。という話です

出典では池田の宿の長者自身が「熊野」ですが、これを歌を詠んだ娘の名とし、時期も平家都落ちの直前とほのめかし、熊野の帰国を許さなかった理由を宗盛の最後の花見に絡ませています 現在物一段能でありながら宗盛の館と清水寺の二場面の間を美文の道行・ロンギで繋いだ大作にして傑作です

さてこの曲のロンギは予習しておいた方が集中してご覧になれるかと ここは宗盛邸から清水寺へ牛車で向かう場面です 能では背景が変わったり回り舞台はないので移り変わる車窓の風景を想像してみなければなりません 事前に地理的な移動や謡いこまれる名所旧跡を知っておくと良いかと思います

ここからしばらく京都の人には釈迦に説法になりますが… 平宗盛の邸は、現在の八条高倉、京都駅新幹線ホーム東寄りの外れ辺りといわれています。そこから河原町通を上って五条大橋(現在の松原橋)を渡ると清水寺には一直線です

ちなみにGoogleマップで湯谷達の経路を検索してみました。八条高倉〜馬留めまで徒歩45分。牛車も同じくらい?と思ったら割とスピード出るんですよ。その気になれば30km/h出たといわれています。

https://goo.gl/maps/F3wk657MG7qBazLy6

完全に余談ですが… 枕草子三十二段に「網代ははしらせたる。人の門の前などよりわたるを、ふと見やるほどもなく過ぎて、供の人ばかりはしるを、誰ならんと思ふこそをかしけれ。ゆるゆると久しく行くは、いとわろし」とあります

意訳: 網代の車は、スピードを出してるのがイイ!門前を通りかかってるのを、確認するヒマもなく過ぎ去って、お供の従者が走ってる姿だけが見えるのを、いったい誰の車なのかしらと思うのが素敵…のろのろ時間をかけて進むなんて、イケてない
清少納言談

あの頃から「俺の車の方が速いぜ!」はあったようです。宗盛も人の馬に焼印押して強奪するイケイケですからどうだったでしょう? さて「四条五条の橋の上」と謡があった後、ロンギは五条大橋を渡った所から始まります。河原おもては鴨川東岸の河原。車大路は現在の大和大路通といわれています

六波羅は六波羅蜜寺。しかし地蔵堂は今はありません。安置されていたとされる立像の地蔵尊は左手に毛髪を持っていて鬘掛地蔵と呼ばれています。今昔物語にもこの像に関する説話が残っているそうなので、地蔵堂が有名だったのかもしれません

続いて愛宕(おたぎ)の寺。愛宕念仏寺のことで昔は松原警察署辺りにありましたが嵯峨野に移転しています 六道の辻は六道珍皇寺の門前。寺内には小野篁が冥土通いしたという井戸があります

名所を次々と謡ってゆくところですが、1箇所だけ気色の違うのが鳥辺山。続く言葉が「煙りの末…」となりますが、ここは風葬や火葬の地として知られ、現在も鳥辺野墓地となっています。ここでのシテの型で目を背ける人とじっと見る人両方いらっしゃいますが、さて今日はいかがでしょうか

北斗の星…」は劉元叔の漢詩「北斗星前横旅雁、南楼月下擣寒衣」からひいていますが、昔は北斗堂という妙見菩薩を祀ったお堂が六道の東にあったといわれています 聖徳太子の草創といわれている経書堂は三年坂にあり、一字一石経(石に経を一字ずつ書く)をおさめたところから、経書堂と呼ばれました

子安の塔は現在、清水寺の舞台の正面に建っていますが元は楼門の前にあったそうです 馬留めは楼門の北に現在でも馬駐として残っていますが今の馬駐は応仁の乱の後の再建です ちなみに清水寺の七不思議「馬駐の逆環」として、手綱を繋ぐ鉄環がひとつ逆さに取り付けられています

車を降りたのでここから境内です。車を降り→織り→衣→張る→播磨→播磨国飾磨郡→飾磨のかち染(播磨の染め物)→鹿間塚と徒歩(かち)に繋がり、鐘楼の北の茂みにあたります。 こうして清水寺に到着して湯谷は本尊に祈念します。 ロンギはここまでです

春たけなわの風情。満開の桜と思いに沈む美女。朽木の桜に身をなぞらえて娘の帰郷を促す母と、散る桜に凋落する平家一門を見るかのように「この春ばかりの花」と湯谷を花見に連れ出す宗盛 湯谷は最後は故郷へ帰りますが、それを見送る宗盛の胸中を思うと華やかにして狂おしい曲でもあります