第21回條風会

能楽

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21回條風会チラシPDF

以下曲目解説です

賀茂物狂(かもものぐるい)

賀茂明神の神職に、ある日不思議な事が起こります。それはこのところ足繁く神社に通い祈請をする女に短冊を渡すようにと夢の中でお告げがあり、短冊を賜ります。やがてその女は、行方の分からない夫を思っていつもの様に祈請に参ります。神職は霊夢のことを告げ短冊を渡します。短冊には岩本明神の祭神である在原業平の歌が書かれていました。女は妹背の道(恋路)を守る神である業平の言葉に励まされ、夫を探すために旅に出て行きます。<中入>

一方、夫は所用のため都を離れていましたが、故郷がなつかしくなり十年ぶりに帰郷します。賀茂の社に参詣してみると、ちょうど賀茂の葵祭の日でした。男は一人の狂女が取り乱しているのを見て、御神事だから心を静めるよう告げると、女は狂人といえども心がよければ聖人と同じであり、神は正直のために方便を捨て俗世に交わるのであるから、狂人の妄言とて隔てられまいと言います。男は話すうちにこの女が妻であることを悟りますが、人目を恥じて名乗らず、舞を舞って祈るようすすめます。女は神に手向けの舞を舞いつつ、恋しい夫を探しに放浪の旅に出たことを舞語ります。やがて男が夫であることに気づきますが人目を憚り口にしません。互いに素知らぬ顔で別れ、家路に着きましたが、この神のご在所の河島が二つの川、賀茂川と高野川を合わせた所にあるように、やがて二人は旧宅で再会するのでした。

いわゆる狂女物に属する曲ですが、隅田川や三井寺などのように愛児の行方を尋ねる母の憂愁ではなく、夫を思い追う心に華やかな風情があり、呼びかけた男の言葉に、愚かなると咎めるが、歌舞の菩薩を祀った橋本・岩本社に舞を手向けるよう言われると、粧いをこらして舞を舞うところに女性としての艶やかさも見られます。主眼である曲の舞は夫を訪ねて東国まで行き、また都まで帰ってくる道中を表しており、非常に技巧的な舞と謡になっています。現行本では後場だけで構成されていますが、今回は前・後の二場面物の曲として上演致します。

富士松(ふじまつ)

主人は、太郎冠者が富士参詣の折りに持ち帰ったという立派な松の木が欲しくてたまりませんが、太郎冠者はきっぱり断ります。主人は連歌合戦をして、自分が勝てば松をもらう、と半ば強引に太郎冠者に持ちかけますが、太郎冠者もさるもの、なかなか鋭く切り返します。だんだん意地になってきた主人、題の出し方が無理難題になってきますが・・・?

邯 鄲(かんたん)

中国、蜀の国の盧生という青年は、人生に迷いを生じ、楚の国羊飛山に住む高僧に教えを乞おうと旅に出ます。途中、邯鄲の里に着き、宿屋に泊まります。その宿の女主人は、かつて仙人を泊めた時、その御礼にと枕をもらいました。不思議なことにその枕で寝ると、夢によって悟りが開けるというのです。盧生は、女主人に勧められ、食事の支度を待つ間、その枕で一眠りします。うとうとすると、起こす人があります。楚の国の帝が位を彼に譲るという勅使です。盧生は、天にも昇る心地で輿に乗って宮殿におもむき王位につきます。それから五十年、酒宴は続き、自らも歓喜の舞をまい、栄華をきわめた毎日を送った…と思ったら、宿の主人に粟の飯が炊けた起こされます。目を覚ました盧生は、すべては夢であったのかと、しばし茫然としますが、人生何事も一炊の夢と悟り、枕に謝し、満ち足りた気持で故郷へと帰ってゆきます。人生の栄華と歓楽が、いかに儚いものであるかを示した哲理を巧みに盛りこんだ曲です。人生如何に生きるべきかに悩む青年、帝位にのぼり、歓楽に酔いしれる時代、夢から覚め、悟りの境地に達する盧生の心の動きを、現実と夢とを交錯させつつ、一場物にまとめた構成は、能の中でも特異です。盧生が枕に伏した時、すでに夢中の人物である勅使一行が橋掛りを歩んでくるオーバーラップの手法。帝王自らが舞っている最中に、百官卿相らがさっと切戸口へ消えるフェードアウトの技法を用いて、舞台の場面は滑らかに変化します。安宿の寝室が、たちまち宮殿に変わり、再びもとの寝室にもどる作り物の用い方。写実的な近代演劇にはない大胆な演出です。

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