“GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊” (押井守)
アニメ版というか押井守版「攻殻機動隊」の第1作目。
1995年の公開当時はインターネットはまだ一般的ではなく、パソコン通信全盛。2400bpsのモデムを買って自慢をしていた時代です。
公開期間があまり長くなく、あまり話題にも上らなかったので映画館では見られず。
原作は読んでいたものの、連載も忘れたころに掲載されるといった、今で言えば
「ガラスの仮面」状態。中身も難解なので、話の筋が分からなくなってしまう作品でした。
映画版がアメリカで絶賛されたというのを聞き、そのころ町に雨後の竹の子のごとく現れ始めたレンタルビデオ店で借りてみた覚えがあります。
一般の人よりもコンピュータやネットの知識があったのでスムーズに見られましたが、そのころの普通の人では話の筋以前にこの世界の設定が飲み込めないだろうと思った覚えがあります。
今回細かいところを思い出すためにTSUTAYAでレンタル。でも日本アニメの代表作でもあるので買っておこうかな。
2029年、企業のネットが星を被い電子や光が駆け巡っても国家や民族が消えてなくなるほど情報化されていない近未来。草薙素子は義体化=サイボーグ化された特殊部隊・公安9課のリーダーとしてテロ対策など特殊任務にあたっている。9課は人間の電脳に侵入する謎のハッカー「人形使い」を追うが、バトー、トグサらに逮捕された男は「人形使い」に操られたに過ぎなかった…
と、あらすじは未来警察ものといってもいいでしょう。お約束の縦割り組織による、警察内の縄張り争いや、権力との癒着のような話もありますが、作品の本質はそこにはありません。
脳以外が機械である「完全義体化」という状態になった人間。いやそれは人間なのかそれ以前に生物なのか。そもそも生物や生命の定義とは何であるか。「私」とは何か、という存在というものに対して、前述した「完全義体」の草薙素子を語り部として問いかけています。
たとえば、あなたが心臓が悪くなり、他人の心臓を移植したとしても、きっとあなたはあなたでしょう。
では脳を患い、脳を移植したらあなたは誰ですか?
脳以外を患い、脳以外を移植したらあなたは誰ですか?
そしてこの2つの区別はどこにあるのですか?
記憶は「私」を形作るのに大切な要素です。しかし経験によりそれは増えてゆきます。その結果「そこ」にはこれまでと違う「何か」がある。新しいものの見方や発見がある。果たして昨日の「私」と今日の「私」は同じなのですか?
この物語の世界ではこれに対する回答として「GHOST」という自我に相当するものをもって、個人を個人たらしめています。
しかし、人為的に作られたプログラム「人形遣い」に「GHOST」が宿ったとき、その拠り所さえ危うくなってしまいます。
現在の医学と情報技術の発達はやがて、生命の意味を問いかけることになると、この当時考えましたが、予想以上のスピードでそれは近づいてきました。
最後の方の場面で、草薙素子は「人形遣い」と融合します。「人形遣い」は生命としてあるためには多様性と種の保存を願っていました。それは生物が進化の過程で、雌雄分離をして、交配による多様性により、単一の原因で種が滅びないようにした過程と同一です。つまりここの場面は、「人形遣い」と草薙素子の「生殖行為」ともとれるでしょう。
融合により何かを悟った草薙素子は自分を救ってくれたバトーに少女の姿の義体でこう応えます。
「童の時は語ることも童の如く、思うことも童の如く、論ずることも童の如くなりしが、人と成りしは童のことを捨てたり」
そして少女姿の義体を捨て(実体から開放され)もはや空間や目的に拘束されない人(?)となり、広大な情報の海である「ネットワーク」に旅立ちます。
前述の引用文は聖書の「コリント書1 13:11」の言葉ですこの続きの13:12は下記の通り
今、我ら、鏡持て見るごとく、見るところ、おぼろなり。されどかの時には顔を会わせて相見えん。今われが知るところ全からず、されど、かの時には我が知られたるごとく全く知るべし。
そしてこの章の最後には愛が一番大事であると書かれています。
ここにずっといてもいい(ずっといて欲しい?)というバトーに対しての言葉なのでしょうか?
さてこの作品ですが、現代社会に対する警告や不毛さを現しているという見方もありますが、自分は未来への希望と考えます。
きっとどんな世の中にあっても、自分が強くさえあればきっと暮らし方生き方があり、そこには希望があると信じたいと思います。
この作品を見返して、イノセンスのほうもいろいろと考え直すことがありましたので、暇があったら(これが無いんだけどね)もう一度鑑賞して、思ったことを書きとめておこうと思います。
P.S.改めて見ると「マトリックス」はこれをパクリ過ぎ(インスペクトっていうのかな?)
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