ニュースの扱い順序が違う

堀江社長逮捕。
それはまあニュースだろうけど、そんなに時間を割いて、扱うニュースではない。
それより「耐震偽装マンション」や「スーパーのレジ袋有料化へ」沖縄の人なら「名護新市長、普天間飛行場移設、受け入れ判断基準示す」などのほうが人命や生活に密着していて大切かと思いますけど。
まあ、国政側の人たちは、してやったりと思っているかもしれません


テレビも新聞も商売ですから、利益にならない(人目を引かないとか大口広告主に具合が悪いとか)ニュースは載せないでしょう。
しかし、見る側もそれを心するべきです。
新聞やテレビで扱った段階で、事件の本質にはその会社のフィルタがかかってしまいます。某国営放送などは、公正中立なニュースを送るなどと宣言していますが、そんなことが人間に出来るとは思えません。

Aが、BでありCでもある。そしてBとCが心情的に相反する(たとえばAが社会的に悪事とされていてBが善行)事象であるとき

AはBであった、そしてCであった。
AはCであった、そしてBであった。
AはBであった、しかしCであった。
AはCであった、しかしBであった。

この4つの文は受ける感じが違います。本当は同じ事のはずが、単語の順序だけで書いている人の意志が現れてしまいます。
心の中ではAが30%・Bが40%・判断保留が30%という感じで同時に存在するものです。
ただ文章というものはシーケンシャル(順序的と訳すのかな?)なものなので、これは書き手の判断に任されます
しかも情報になるソースが単一では、(情報の)正誤の判断さえ出来ません。本当は複数の情報から、(本来の意味の)適当な中心値を求めるべきでしょう。(これすらも推測値の域をでませんが・・・)
しかしいまだに世の中には、テレビや新聞に出る物は正しいと思っている人は多いようです。

こういう人たちはテレビや新聞が「私たちの記事は信じないで下さい」と言ってくれるのを待っていなければ、気づいてくれないのでしょうか・・・
ん?これって「嘘つきのパラドックス」になってしまいますか?

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