フランケンウィニーにみた、愛と無知

今どきナゼ?のモノクロアニメ。家族で見てきました。

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映画自体は凡庸でしたが思うことがあったのでエントリーをたてます。以下ネタバレもあるので折りたたみます。

 実は監督のティム・バートンのセルフリメイク作品。

元になる短編の「フランケンウィニー」はティム・バートンが最初にプロの俳優たちと仕事をすることになる最初の作品。そのころはディズニーに在籍。ただピノキオと同時上映だったはずがPG指定(保護者同伴)をうけてお蔵入りになった映画。その後一部の映画館で上映されたもの。

さて筋書きははっきり言って全く予想通り。最後スパーキーにはゆっくり眠ってもらったほうが良かったのでは…とも思うが…

ただ中盤にある科学の先生の言葉が興味を引いた。

場面は主人公のヴィクター・フランケンシュタインが謎めいた実験を行うのを大人たちが問題視し、科学を教えているジクルスキ先生(またこの先生の風貌がマッドサイエンティスト然としているのだ)のせいだと糾弾。本人に弁解の機会を与えるべしとして、まあいわゆるPTAの集会にジクルスキを呼んだ場面。

しかしそこでジクルスキは自己弁護する事無く、問題の原因が大人たちの無知と無教養にあると演説する。無知のために科学を恐れ、その恐れのため理解ができない。大人たちに「あなたがたを変えるにはもう遅い」と述べ、次代の子供に期待を託すのだといい放ち、当然の事ながら解雇される。

そして学校を去るジクルスキにヴィクターは質問をする。

「一度上手く行った実験が、次には失敗した。何故でしょう」

ジクルスキは答える。

「失敗した実験には愛が無かったからだ」

「科学に善悪はない。ただし、人はそれを善にも悪にもすることができる。だから科学には愛がなくてはいけない」

結局この場面がこの映画の重心になるのだろう。

愛するスパーキーのために実験をしたヴェクターと、科学典の勝利のために実験をした他の子供達。

科学を恐れるばかりで理解することができず、害を為さないスパーキーを追い立てる大人たち。

ジクルスキの言葉は露骨だけど間違っていない。しかし諫言耳に痛し。本質を言い当てられると人間は反発する。そして反発したもの同士が一緒になって増長してゆく。その結果がスパーキー狩りだ。スパーキーの何でもない行動をことさら問題視して、とんでもないことが起こっているように吹聴する。

まさにいまの原発問題もここにある。

愛の無い科学が災害を起こし、科学への無知が有りもしない災厄を作る。

このへんなんとも説明しがたいが、ちょうどいい本があるのでおすすめしておきます。

 

俗にいう「良書」であるのは間違いない所。kindle版もある。

本書では科学的なものの見方を欠いていては「損をする」と、色々の例を挙げてその理由を説明する。科学的な考えとはどんなものか、その認識を持たない場合にはどうなるのか、と。それは、現象を捉える際の考察の仕方の違い、つまり現象を客観的に(主観を過度に一般化しない)見たり数量的に分析したり、という事であったり、そもそも科学を基盤として成立している現代社会においてその基盤となる科学に関する知識を備えていないのでは様々な不利益を被るであろう、という見方である。

筆者は工学博士だが作家でもあるので読み物としても面白い。

最後に抜粋して引用

「科学者とは、科学でなんでも解決できると傲っている」と言う人がいるけれど、それは、その人が勝手に思い込んでいる印象である。むしろ、科学ほど「謙虚」なものはない。ものごとを少しずつ確かめながら進んでいる科学の基本姿勢は、傍目には、楽観ではなく悲観である。そこまで慎重になる必要があるのか、と思えるほどだ。 ちょっとした質問に対しても、「まあ、だいたいそうですね」と割り切って答えることができないのが、科学者である。それは、少しでも例外が認められるなら、僅かでも違う可能性が考えられるならば、肯定することはできないという姿勢であり、なによりも謙虚さの表れといっても良い。

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